LOGIN洗い椅子に腰を下ろさせ、桶でぬるま湯をそっとかける。 湯気がふわりと立ちのぼり、彼の白い肩に水の粒がきらめいた。 透明な雫が、滑らかな肌を伝って流れていく。
「……っ、あ」 小さな声が漏れる。驚いたのかと思ったが、彼は目を細めて、無垢な笑みを浮かべていた。 「ねえ、これ……なんか、すっごくきもちいい」 「湯をかけただけだぞ」 「でも、リョウのて……あったかくて、ふわってする……」 その純粋な言い方に、胸がくすぐったくなって、思わず目を逸らす。 「はいはい、次は洗うぞ」 スポンジを手に取り、石鹸を泡立てる。 ふわふわの泡を、彼の肩にそっと乗せると、泡が肌に溶け込むように広がり、ぬめる感触が指先に伝わった。 「……あ」 「くすぐったいか?」 「ううん……きみの手、だいすき……」 彼の肌は、ほんとにきれいだ。 泡を滑らせるたび、湯気に包まれたその白さが一層際立つ。 肩幅は広く、胸板は厚く、骨格はがっしりしているのに、どこか柔らかな曲線がある。 腕も脚も、無駄なく引き締まっていて、力強さと繊細さが共存してる。 (……180㎝くらいあるよな、こいつ。がっしりしてるのに、なんでこんなしなやかで… 肌、めっちゃきれいだ。顔も身体も……なんだ、このバランス) 俺の視線が、彼の身体をなぞる。鎖骨のライン、腹筋の緩やかな起伏、濡れて光る肌。 湯気がその輪郭をぼかして、まるで夢の中みたいだ。 (……こういうのを、造形美って言うんだろうな。綺麗で、力強くて、無防備で……思わず目を奪われてる) 自分でも気づかぬうちに、息が少し詰まる。心臓が、どくんと跳ねた。 「ここ、もっと洗って」 彼が脇腹を指差し、身をよじるように促してくる。 無邪気な仕草なのに、濡れた肌が動くたび、妙な色気が漂う。 「はいはい、動くなよ」 傷つけないよう、スポンジで丁寧に撫でる。 泡が滑る感触、柔らかいのに弾力のある肌。 時折、彼が「ん……」と小さく甘い声を漏らすたび、耳の奥がざわつく。 (こんな声……反則だろ……) 「次、髪な。目、つぶれ」 彼の頭を抱えるようにして、たっぷりの泡で髪を撫でる。金髪が柔らかく指に沈み、濡れて額に張り付く。無防備に身を任せるその姿に、胸の奥がまた熱くなる。 「きもちいい…もっと、して…」 「……はいはい」 洗い流すとき、首筋を伝う湯に目が釘付けになる。雫が鎖骨を滑り、胸元に消えていく。 その無意識の色気に、思わず手が止まる。 (……なんだ、この色気。かっこよすぎだろ、こいつ……) 心臓がまたどくんと鳴る。こんな気持ち、だめだろ、と思いながらも、視線が離せない。 最後に下を洗おうとスポンジを当てると── 「そこ……さっき、いっぱいびくびくしたとこ……」 「わかってる、静かにしろ」 そっと撫でると、彼の身体がぴくっと跳ねた。思わず動きを止めるが、彼は目を細めて笑う。 「……リョウ、さわるの……ほんと、きもちいい」 その声が、湯気に溶けるように響く。金髪が濡れて額に張り付き、湯気の中で揺れる彼の姿に、胸が締め付けられる。 (……なんなんだ、この見た目) (かっこいいのに、こんな無垢で……綺麗すぎるだろ) そんなことを思う暇もなく、彼の手が俺の腰に伸びてくる。 「もっと、さわって……」 「……今日は、もうだめだ」 (こんなの……またやったら、ほんとに理性が……) 「じゃ……あした?」 無垢な瞳でそう聞いてくる彼に、俺はただ苦笑いで返すしかなかった。 *** 湯船に浸かる彼を、俺は少し離れたところから見つめていた。 立ち上る湯気の中、濡れた金髪が額に張りつき、白い肌がほんのり紅を差す。 まぶたを閉じて、気持ちよさそうに息を吐く彼は、まるで警戒心のない子犬みたいで──それでいて、目が離せないほど艶っぽい。 「……ん、きもちいい……」 小さく呟かれたその声が、湯面に溶けていく。 水がゆらゆらと彼の肩を撫で、胸板をかすめるたび、滑らかな肌が光を弾く。 鎖骨のライン。締まった腹。太腿の付け根。 ……気づけば、目がそらせなくなっていた。 (……やば。マジで、やばい。何考えてんだ俺) 「ねえ、きみも……ここ、はいって?」 彼が目を開けて、湯船をぽんぽんと叩く。 誘ってるわけじゃないのはわかってる。けれど、無邪気なその仕草に、心臓が跳ねた。 「いや、狭いし……俺はいい。見てるから」 (近づいたら絶対、また理性が飛ぶ。あの肌の下に腕を回して、背中を撫でて──いや、ちげえ、何考えてんだ) 記憶の奥で、さっきの声がリフレインする。 ──そこ……さっき、いっぱいびくびくしたとこ…… ──きみ、さわるの……ほんと、きもちいい…… 背中を伝う汗とは違う熱が、首の奥から込み上げてくる。 (……こいつに、また触れたら。今度こそ、止まれねえ) でもこれは、恋じゃない。 甘さも、優しさも、まだ名前がない。 ただ、身体の奥が、疼いて仕方ない。 (……惚れた、なんて言葉を使うには、まだ早すぎる。けど) そんな思考を、彼の声が破る。 「……まあいいや。きみが来なくても、ずっと一緒にいたい」 湯船に沈み、満足そうに目を細めるアマ。 その無邪気な言葉が、さっき彼に触れられていた場所に、じわりと熱を呼び戻す。 指先が、膝が、さっき洗ってやった「そこ」が、まだ彼の感触を覚えていて、熱を帯びて疼いている。 (……やめろ、思い出すな。……なんで、あんな声……) 湯気のせいだけじゃない。 自分の体温がどんどん上がっていくのが分かって、俺は必死に顔を伏せた。 まるで、彼に中まで見透かされているような、得体の知れない居心地の悪さと、甘い痺れが胸の奥で渦巻いていた。熱の底で、遼は何かを追いかけていた。 金色の光みたいなもの。 あたたかい手。 胸の奥がぎゅっと痛くなる感じ。 それが何なのか、どうしてこんなに苦しいのか、もうわからない。 目を開ける。 見慣れた天井だった。自分の部屋だとわかるのに、身体が鉛みたいに重い。 襖の向こうで、声がした。 「遼のことは問題じゃない。分霊が消えた。それが問題だ」 父の声だった。 遼は息を止めた。 分霊。 知らないはずの言葉なのに、その響きだけが妙に胸を刺した。 「問題じゃない?」 栄子の声が、低く震えた。 「目を覚まさないのに?」 「戻ったなら十分だ」 「十分なわけないでしょ」 短く、鋭い声だった。 「遼は連れていかれかけたんだよ。 消えたのがそっちじゃなくて、遼だったかもしれないのに」 父は少しも揺らがなかった。 「その方がよかった。〈天〉を失った今、この家は終わる」 その言葉に、遼の胸がまた痛んだ。 何を失ったのかはわからない。 でも、自分より大事なものがあるのだと、父は言っている。 「……最低」 栄子が吐き出すように言った。 「こんな家、終わっていいよ」 「音瀬の者ならわかるはずだ」 「わかりたくない」 ぴしゃりと返る。 「私は家のためじゃない。遼のためにやったの」 その声だけが、熱の中の遼にははっきり聞こえた。 遼は布団の上で、そっと指を握る。 何かあたたかいものに触れていた気がした。 大事だった気がするのに、思い出そうとすると、輪郭はするりと逃げていく。 気づくと、目の端から涙がこぼれていた。 熱い涙だった。 頬を伝って、枕へ落ちる。 どうして泣いているのか、自分でもわからない。 ただ、もう二度と触れられないものがある気がして、胸の奥がひどく痛んだ。 *** あの日から、長い時間が過ぎた。 シーツの熱が、まだ肌に残っていた。 遼は佐伯の腕の中で浅く息をつきながら、ぼんやりと天井を見ていた。 身体の奥はまだ少し痺れているのに、不思議なくらい心は静かだった。 佐伯の指が、遼の髪をゆっくり梳く。 その手つきは、さっきまでの熱とは違って、ひどく優しい。 「……寝る?」 低い声が耳元に落ちる。 「んー……まだ」 答
最初のうちは、窓の外にも見慣れた景色が流れていた。 閉まった店の灯り、途切れがちな街灯、黒く沈んだ家並み。 けれど、いくつか駅を過ぎたあたりから、遼は小さく眉を寄せた。 こんな線路だっただろうか、と思った。 窓の外が、妙に暗い。 ただ夜だからというだけじゃない。遠くにあるはずの家の灯りが見えず、木立ばかりが続いている。しかも、その木々は風もないのに、ときどき水の底みたいにゆらいで見えた。 隣で、アマはじっと窓の外を見ている。 「……アマ」 「うん」 返事はいつもどおり穏やかだった。 けれど、その横顔を見た瞬間、遼の胸の奥がまたきゅっとする。 アマは、知っているのだと思った。 この先へ行くことを。 この景色がどこへつながっているのかを。 電車がトンネルに入る。 窓の外が真っ黒になった。 その瞬間、車内の灯りがひとつ、ふっと明滅する。 遼は思わずアマの手を握り直した。 すぐそばで、アマが遼を見る。 「こわい?」 遼は少し迷ってから、小さく頷いた。 「……ちょっと」 アマは怒らなかった。 笑いもしない。 ただ、遼の手を包みこんで、静かに言う。 「だいじょうぶ」 その声に、また胸がきゅっとした。 怖いのに、うれしかった。 その手があるだけで、行ける気がしてしまうのが、いちばん怖かった。 長いと思ったトンネルは、音もなく終わった。 けれど、抜けた先の景色を見て、遼は息を呑んだ。 知らない駅だった。 ホームは古く、灯りは青白い。 看板らしきものはあるのに、字が読めない。読めるようで読めない、見ていると形だけが崩れていくみたいな文字だった。 窓の外には、黒い森が広がっている。 その向こうに、どこか見覚えのある山の影があった。 神根だ、と、なぜか遼は思った。 扉が開く。 外の空気はひどく冷たかった。 夏の夜のはずなのに、そこだけ季節が違うみたいだった。 アマが立ち上がる。 「ついた」 その声は、うれしそうだった。 遼も立ち上がりかけて、ふと動きを止める。 ——いや。 神根遺跡は、もっと遠いはずだ。 電車を何本も乗り継いで、それでも最後は山道を行かなければ着かない。 こんなふうに、夜の電車に少し乗っただけで
それから半年ほど、遼は何度も離れへ通った。 最初は水と干菓子を持っていくだけだった。けれどそのうち、庭で拾った石や、折った草の葉や、書庫でこっそり覚えた言葉まで持っていくようになった。アマは少しずつ人の言葉を覚え、遼の来る時間になると、障子の向こうでじっと待つようになった。 遼も、ただ会いに行っていただけではなかった。 何度か言葉を交わすうちに、アマが「かみね」から来たのだとわかった。それが神根遺跡のことだと気づいた頃には、もう季節が二度変わっていた。 父の本棚から地図帳を出して、神根の字を何度も指でなぞった。裏門から駅までの道を頭に入れ、庭師が話していた山道のことも覚えた。缶にしまってあったお年玉を何度も数え、これだけあれば二人で電車に乗れるだろうかと真剣に考えた。 子どもの考えることだから、きっと抜けだらけだった。 それでも遼は本気だった。 秋が深まるころには、アマに触れられるたび、遼の体にはもうはっきり変化が残るようになっていた。手首を掴まれればそこから熱がひろがったし、肩に指が触れるだけで、胸の奥や下腹のあたりが落ち着かなくなった。 なんだろう、これ、と何度も思った。 でも嫌ではなかった。困るのに、次もまた触れてほしいと思ってしまうのが、いちばん困った。 その日、遼は離れの座敷で膝の上に手を置いたまま、小さく息を吸った。「……きょう、いこう」 アマが金の瞳を上げる。 遼はどきどきしながら続けた。「調べたんだ。駅まで行って、電車に乗れば、神根の近くまで行ける。お金もある。たぶん、行ける」 アマは黙って遼を見ていた。 その視線に見つめ返されるだけで、遼の胸はまた少し熱くなる。「ほんとは、たぶん、だめなんだと思う。姉さんも変なこと言ってたし、見つかったら怒られる」 そこまで言って、遼は唇を結んだ。「でも、きみをここに置いていくの、もういやだ」 しんとした座敷の中で、アマがゆっくり瞬きをする。「……きみ、かえる?」 アマは遼を見て、それから小さく訊いた。「いっしょに、かえる?」 遼は息を止めた。 返してあげる、とは言った。 けれど、一緒に帰るつもりだっただろうか。自分の家はここで、学校もあって、母も姉もいる。そのはずなのに、アマの金の瞳を前にすると、「ちがう」と言うのがひどく怖かった。「……」 少しだけ迷っ
翌日の午後、遼は小さな水差しを抱えて離れへ向かった。 怖くないわけではなかった。姉に言われた言葉も、まだ胸のどこかに引っかかっている。けれど、それよりも、もう一度あの金の瞳を見たい気持ちのほうが強かった。 障子の前に立つと、昨日と同じように空気がひやりと変わった。夏の終わりの庭の匂いが遠のいて、古い木と畳の冷たい匂いだけが残る。 遼は小さく息を吸って、障子を開けた。 その人は、昨日と同じ場所にいた。 淡い金の髪が肩から背へ落ちて、薄暗い座敷の奥でじっとしている。けれど遼の顔を見た瞬間、金の瞳がほんの少しだけひらいた。 「……きた」 低い声だった。 その声を聞いた途端、遼の下腹の奥が、きゅう、と縮んだ。 嫌なような、でも少し甘い痺れが走って、遼は思わず息を止める。 なんだろう、これ、と思った。 「……うん。お水、持ってきた」 座敷へ上がって差し出すと、その人は不思議そうにそれを見たあと、そっと両手で受け取った。飲み方は少しぎこちなくて、喉が上下するのを見ていると、本当に喉が渇いていたのだとわかる。 昨日、戻れなかったことが急に申し訳なくなって、遼は膝の上で手を握った。 「……ごめん。昨日、戻るって言ったのに」 その人は水差しを抱いたまま、少し首を傾げた。 「きたから、いい」 それだけで許されるのが、かえって困る。遼はますます胸の奥が落ち着かなくなった。 しばらく黙ってから、遼はぽつりと訊いた。 「なんで、きみはずっとひとりでここにいるの」 その人は少し考えるみたいに目を伏せた。 「……まえは、ひとりじゃなかった」 「じゃあ、なんで」 金の瞳がゆっくりと遼を見る。 「ついてきたら、かえれなくなった」 遼は息を止めた。 うまくわからない。誰に、とは聞けなかった。でも、その言い方がひどく寂しくて、遼は胸の奥がきゅっとした。 「きみ、名前は?」 その人は少し首を傾げた。 「なまえ?」 「うん。きみのこと、なんて呼べばいいの」 しばらく黙っていたあと、その人はゆっくり首を振った。 「……ない」 遼は目を瞬いた。 名前がないなんて、そんなことあるのだろうか。犬にも猫にも、庭の鯉にだって名前はあるのに。 「……ないんだ」 思わずそう言うと、その人は何も答えなかっ
「……だいじょうぶ?」 変なことを聞いた、と遼は言ってから思った。 相手は少しまばたきをして、それから、ほんの少し首を傾げた。 「……だいじょうぶって、なあに?」 遼は息を止めた。 その返しが変だった。 言葉の意味が通じていない、というより、その言葉が最初からこの部屋にはないみたいだった。 ぞわ、とまた背中が粟立つ。 やっぱり、まずい。 ここにいてはいけない気がした。 遼は思わず一歩だけ後ずさった。廊下へ出て、大人を呼んだほうがいい。そう思うのに、相手の金の瞳がじっとこちらを見ていて、うまく足が動かない。 「えっと……つらくない、とか。いたくない、とか……そういうの」 説明しながら、自分でも何をしているのかわからなかった。 相手は黙って聞いている。 その顔が、綺麗なのにひどくわからなくて、遼はまた少し怖くなる。 やっぱり帰ろう。 今度こそそう決めて踵を返しかけたとき、相手がそっと手を伸ばした。 大きな指が、遼の手首を包む。 びくっと肩が跳ねた。 強く掴まれたわけではなかった。振り払おうと思えば、たぶんすぐにできた。 けれど、その手は思ったより温かくて、遼は一瞬、息を止めた。 人の手の温かさとは少し違った。 火みたいに熱いわけでもないのに、触れられたところからじんわり何かが染みてくるようで、手首の内側が落ち着かない。 「……いかないで」 掠れた声が落ちる。 その声が、あまりにも寂しそうだった。 遼は息を止めたまま、掴まれた手首にそっともう片方の手を添えた。 振り払うというより、傷つけないように指を外していく。 大きな手は、少し名残惜しそうに、けれどあっさり離れた。 「……すぐ、戻るから」 そう言って、遼は座敷を出た。 けれど、結局その日、戻ることはできなかった。 水を持っていくつもりだったのに、離れを出た途端、急に怖くなった。誰かに見つかることも、この家の言いつけを破ったことも、あの金の瞳にまた見つめられることさえも、急に現実味を帯びたからだ。 それでも、掴まれた手首のあたたかさだけは、いつまでも消えなかった。 *** その夜、遼はなかなか眠れなかった。 目を閉じるたび、離れの暗い座敷と、あの金の瞳が浮かぶ。 怖かったはずなのに、
音瀬家の子どもは、離れのいちばん奥に近づいてはいけない。 遼は、小さい頃から何度もそう言い聞かされてきた。 夕方から先は行くな。 鈴の音がしても、呼ばれたと思うな。 見ても、知らないふりをしなさい。 理由を聞いても、大人たちは誰も答えなかった。答えないくせに、その話になると、みんな少しだけ声をひそめた。障子を閉める手つきまで、どこか急いでいた。 だから遼も、離れの奥には口にしてはいけない何かがいるのだと、なんとなく知っていた。 その日も、夕方の縁側から使用人が膳を運ぶのが見えた。白い飯、湯気の立つ汁物、季節の菜。けれど、それはいつもほとんど手つかずのまま下げられる。 どうして食べないのだろう。 どうして誰も、そのことを気にしないのだろう。 気になって、遼は庭へ下りた。 石畳はまだ昼の熱を残していたのに、離れに近づくにつれて足元の空気だけがひやりと変わった。夏の終わりの夕方だった。蝉の声も、母屋のほうの話し声も、そこだけ薄い布を一枚かけたみたいに遠くなる。 離れの前に置かれた膳は、そのままだった。 汁の表面に張りかけた膜が、時間の経ち方を見せている。 そのとき、奥で鈴が鳴った。 ちりん。 遼の肩がびくっと揺れた。 細い音だった。高くも低くもないのに、耳ではなく、背中の真ん中に直接落ちてくるみたいな鳴り方だった。 もう一度、ちりん、と鳴る。 呼ばれている気がしたわけではない。 けれど、誰かがそこにいて、じっと息をひそめているのだとわかってしまった。 行ってはいけない。 見ても知らないふりをしなさい。 頭の中で祖母の声がした。 それなのに、遼はその場を離れられなかった。 怖い。 なのに、どうしてか胸の奥が妙にざわつく。逃げたいのとは少し違う、もっと落ち着かない感じだった。障子の向こうにあるものを見なければ、今夜は眠れない気がした。 遼はそっと縁に手をかけた。 障子紙は夕方の光を薄く吸って白く光っていた。近くで見ると、桟の木は古く、指先にざらりと毛羽立っている。 その白さの向こうに何かいると思うだけで、ぞく、とした。 開けたらいけない。 ここを開けたら、何かが変わる。 そんな気がしたのに、指は離れなかった。 ほんの少しだけ。 中を見て、